>>16 後期オウムが覚醒剤や幻覚剤を使用したように、決して簡単じゃないんだけれど、
身体のもつ内在力だけを利用してトリップする唯一の方法がそれだから。
でも、それは悟りじゃないとブッダは気がついてしまったんだね。
だから、瞑想というもっと確実で持続する悟りを手に入れられる方法に転換した。
日本の仏教も瞑想を極めてゆく中で、行の禅を主体にするか、唱題で瞑想に導くか、はたまたすでに仏であると感謝する阿弥陀仏信仰に到達する。
手放すこと、戯論を去ること、しかもそれを出家、お籠もりの行ではなく、日常の行の中に実現すること。
これは、簡単な方法に逃げてきた軌跡のように見えて、実は最も難しい方法を選択したとも言える。
日常には全く逆の生き方を強いる圧力が満ちている。
にもかかわらず、そのさなかに悟れというわけである。
どういうことなのか殆どの仏教徒も分からないはずである。
浄土真宗のその先に展開するべき仏教の姿が見えていないからだ。
私に言わせれば、日蓮宗はある意味後退であるが、別の意味では世間、俗世に入り込もうとして足掻いた形跡に、悪戦苦闘の涙ぐましさを感じる。
なぜ、戦前から戦後も、社会がまだ日蓮宗を諦めきれないのかは、答えが出そうで出ていないからだし、
その脈は浄土真宗ではなく、日蓮宗の悪あがきの醜態の先にあると期待されるからだ。
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